UP 2011.6.15 HRY
シニア自然大学環境科2011年6月度野外活動
なにわの渡しと歴史を歩く
◇日時:2011.6.10(金) 9:45〜15:00
◇天気:曇りのち一時雨
◇集合:南海高野線 汐見橋 9:45
◇行先:なにわの渡しをめぐる(汐見橋〜天保山)
◇目的:なにわの渡しをたずね、大阪の都市環境を考える
◇参加者:環境科 38名
 全国でも珍しい大阪に残る渡し船。淀川が「天下の台所」大阪を支えた貨物輸送の幹線であった往時の名残ともいえますが、今に残る暮らしの匂いは、水都大阪の風物詩。渡し船で大阪の隠れた魅力を探ります。西成区、大正区、港区、此花区の4区を歴史散策しながら約10kmを歩く。0mから50mまで展望も絶佳でした。
行程:
南海汐見橋駅→津守駅・・・落合上渡船場・・・千島公園・昭和山・・・甚兵衛渡船場・・・千歳渡船場・・・鶴町4丁目(昼昼)・・・なみはや大橋・・・天保山(解散)・・・天保山渡船場・・・JR櫻島駅 
行程図 ,1845年(弘化2年)の地図
大阪の渡船
 大阪は別名,『水の都』と呼ばれ,いくつもの川や堀が水運に使われてきた。臨海部を中心に今でも大型船が航行するため,橋を架けることができず、両岸 間の往来に渡し船を使う場合が多くあり、人々の往来のための渡船場が各所にある。当初民間によって営まれていた渡船は、明治24年に大阪府が「渡船営業規則」を定め、「監督取締り」を行うようになり、明治40年には安治川、尻無川および淀川筋の29渡船場については市営事業として市が管理することになった。
 大正9年、旧道路法の施行により渡船は無料となり、昭和7年 4月以降は、ほとんどが市の直営方式になり、最近になってこうした可航河川・運河にも桁下の高い橋が架けられるようになった。以前に比べるとその 数は減ったが、それでも現在、市内の8か所で大阪市建設局により毎日運航され、地元の人の通勤、通学や買い物などの重要な足として活躍している。 
*大阪の渡船場:
@天保山渡船場 A甚兵衛渡船場 B千歳渡船場 C落合上渡船場 D落合下渡船場 E千本松渡船場 F船町渡船場 G木津川渡船場
1.落合上渡船場
 落合上渡船場は、木津川を挟んで大正区千島1丁目と西成区北津守四丁目を結ぶ岸壁間100メートル、1時間に4往復している公営の渡船です。大正区側は、旧町名を、「新炭屋町(しんすみやちょう)」と言い、宝暦13年(1763年)に、大坂瓦町居住の炭屋三郎兵衛によって開発された「炭屋新田」のあったところです。平成20年度現在、1日平均540人が利用している。上流にある木津川水門(防潮)が毎月1回程度開閉試運転のため閉まっているのが見られるそうです。

落合上渡船場へ

西成区から大正区へ木津川をわたる

木津川水門
2.千島公園・昭和山
 大正区千島の一帯には大正時代に貯木場や製材工場が建設され、木材工業の街を形成していたが地盤沈下などで移転。跡地に「港の見える丘」として標高33mの人工山を中心とした公園を造成した。公園内にはツツジ約5万本やソテツをはじめとした亜熱帯植物などが植えられている。大正区は住民の多くを沖縄県出身者が占める区として知られ、通りを歩いていると沖縄料理の食材を扱った店をよく見掛けました。

昭和山33m

港の見える丘

公園にはソテツとヤシが多い
3.甚兵衛渡船場
 甚兵衛渡船場は現存する渡船場で唯一人名が付いた渡船場で、大正区泉尾七丁目と港区福崎一丁目を結ぶ岸壁間94m。起源は相当に古く、寛永年間の記録には既に登場しています。「甚兵衛渡し、この堤の両堤にハゼの木を数千株植え列ねて、紅葉の季節にいたりては川の両岸一円の紅にして川の面に映して風景斜ならず。騒人墨客うちむれて風流をたのしみ酒宴に興じて常にあらざる賑わひなり。両岸の堤は数町のあいだハゼの並樹にして紅葉の頃は水に映じから紅に水くくると詠じたる龍田の川も及ばざる光景なり。河下に甚兵衛の小屋とて茶店あり年久しき茅屋にして世に名高し。『摂津名所図絵』より寛政10年(1798年)」と書かれていました。本日は往復する。利用者約1500人/日。

甚兵衛渡船場について解説する沖本さん

江戸時代は紅葉の名勝地

自転車の利用者が多い
4.千歳渡船場
 千歳渡船場は長距離ながらも同一区内(大正区)を結ぶ航路で、湾口の北恩加島(きたおかじま)と鶴町を結んでいます。距離はおよそ370メートル。現在では千歳という地名はありませんが、1845年開発の千歳新田があったそうです。この地は貯木場で、渡船が運航している場所には千歳橋(旧千歳橋)が架かっていました。しかし、昭和32年に貯木場を浚渫して大正内港を建設する際に、旧千歳橋が船の入港の邪魔になるために撤去されてしまい、その代償として千歳渡船場が設けられたとのことです。平成15年に全長1064mの新千歳橋が完成しましたが、渡しは残りました。利用者数約750人/日。

ふたり仲よく

湾口を結ぶ渡船場(北恩加島側)

新千歳橋と渡し船(鶴町側)
5.なみはや大橋
 なみはや大橋(尻無川新橋有料道路)は、1995年2月に完成。大阪市大正区鶴町と港区海岸通を結ぶ全長1740メートルの有料橋です。流線形を描いた長大橋で、往復2車線。中央部では、水面から高さ45メートル、幅100メートルの航路を確保した設計です。 尻無川河口部の両岸を結ぶことにより、港湾地域の道路網の整備と災害時の避難・救援路の役目を果たす目的で計画されました。橋上からは大阪河口や今まで歩いてきた渡船場、これから行く天保山が一望です。

流線形を描くなみはや大橋

橋上から尻無川の新千歳橋と渡船場を振り返る

なみはや大橋を天保山に向う
6.天保山渡船場
 江戸時代、安治川の開削によって上流の流砂が堆積し諸国廻船の航行に支障が生ずるようになったので、幕府により、天保2年から2年の歳月と延べ10万1200余人を動員して「御救大浚」と呼ばれる大工事が行われた。このときの捨土を盛り上げたものが出船、入船の目標となった。そこでこれを幕府は「目標(めじるし)山」と命名、やがて人々は、天保山と呼ぶようになった。国土地理院に「山」として認定され標高4.53mの「日本一低い三角点」となった。
天保山渡船場は港区築港−此花区桜島を結ぶおよそ400メートルの渡し船で安治川を挟んで対岸の桜島にはユニバーサル・スタジオ・ジャパンがあり賑わっている。利用者は約900人/日。

地元の衣本さんの解説

日本一低い三角点4.53m

天保山渡船場
浪花百景 天保山の陶板画

甚兵衛渡船場にて
まとめ
 このあたりは三角州が点在する河口であり、江戸時代にこの地を開発した人の名前に由来するものも多く、三軒家→3件の民家があった(木津勘助により開発)北村および泉尾→北村六右衛門および出身地の和泉国大鳥郡踞尾村から命名された。北恩加島・南恩加島・千島・小林→江戸時代にこの地を開発した岡島嘉平次の名前および出身地に由来する等。
 梅雨時の曇り空の中で、途中少々雨にもあったが、全国的にも珍しいであろう大阪市公営の渡船めぐり。それぞれはほんの数分の乗船ながら、なんとなくわくわくとするものがあった。皆さんはどんな感想をもたれたのかな?
どの渡船においても、自転車の人、子ずれの人等、乗船客も多く、地元の人の足としてなくてはならない『道』であることの役割が十分に感じられた。また貴重な観光資源としてもっとPRされてもいいのではないかなとおもった。何分、歩きと無料の渡船めぐりなので、身体的にも懐にもとてもいい一日だった。(井上加)
梅雨晴や水脈のS字に広がりて      みのる
文・資料/沖本・井上(加)、俳句/浅田、写真/井上・平山、編集/平山
企画:沖本・井上(加)

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